終戦前夜から
剣道部師範 新堀 強
はじめに
剣友会の皆さんにはお変わりなく、国内は勿論、世界各地に於いても御活躍との
近況を聞き及び大慶に存じます。世は不況と称されて久しいこの時期、各位におか
れては、さらなる御発展をと願って止みません。今回は「直心」十七号につづき、
終戦前夜の思い出等をつづる拙稿にてお許し願いたく存じます。
魅せられた胆力
「直心」十七号に載せた水戸の叔父宅に居候中の中学一年、水戸空襲の二日前の
ことである。愈々本土決戦が唱えられ連日勤労奉仕で、水戸千波湖周辺の山々に防
空壕を掘るのであった。食糧は配給制度で欠乏し疲れ果てる毎日で夜は死んだ様に
よく眠った。
さて茨城県日立市には軍事工場があったため敵の狙うところとなり、終戦直前の七
月三十日、艦砲射撃の的となった。その轟音は水戸市内までをも揺るがした。真夜
中就寝中のできごとであった。
日中の勤労奉仕で疲れきった私には、地響き等気付く由もなく寝込んでいたが、誰
か白髪の老僧が枕元で呼びかけている夢を見て目を覚ました。すると、そこには厳
然とした叔父の姿があった。今でも忘れない、「あ、目がさめたか。驚いてはいけ
ないよ。今、日立が艦砲射撃を受けている。いつ筒矛がこちらに向くか分からんか
ら早く起きて支度しなさい。」との落ち着いた、やさしい声に私は飛び起きた。その
間も轟音で身がすくむほどであった。
あの様な時にあの様な態度で冷静な指示ができるであろうか?正に平常心是道で
あった。その偉大さに叔父に対して畏怖と敬慕の念を深めていった。
戦後間もないころ
終戦と同時に占領軍の指令によって剣道は禁止された。武道館ではいけないと云
って、名称まで体育館と変更させられた。大和魂を非常に恐れたのである。水戸で
焼け出され、やむなく私は県立鉾田第一中学に転校した。父に付き添われて八月十
五日転校届けを出して帰宅途中、人ごみの中で玉音放送を聞いた。信じ難き敗戦の
宣であった。一億一心で本土決戦を誰もが覚悟していた最中であった。「耐え難き
を耐え、忍び難きを忍び……」の放送であった。皆泣きに泣き、ひれ付していた。
大戦下誰もが、否応なしに皆必死で戦ったのである。そこには自由こそなかったが、
国の為に皆血を流そうとしたのである。然し、戦争ほど残酷で非情なものはない。
今後二度とあってはならぬ。日本は負けたのである。「勝つ事ばかり知りて負くる事を
知らざれば害その身に至る。」と徳川家康公が云っているとおり。軍部の猛進が
敗戦を招いたのである。
中高時代
教育制度の改革で県立鉾田第一中学、同鉾田第一高等学校と計六年間通学した。
当時はすべてに物資不足で貧困との戦いであった。自転車もなくバスは本数が少な
くいつも満員で乗れないので、十二キロの道程を徒歩通学した。勉強は毎日歩きな
がらであった。自転車通学できたのは高校二年頃からである。剣道は出来ず、専ら
ラグビーとマラソンに熱中した。ラグビーでは県大会まで出場。亦、弁論部に入り、
大会にも出場した。
当時は生徒会発足当初であり、応援弁士がつき会長に立候補し、大いに青春時代の
燃焼を訴えた。見事当選して生徒会長を務めたが風紀委員長も兼ねていたので、何
かあるといつも校長室に呼ばれた。煙草を喫しないのはこの頃のせいかも知れない。
同窓生が私を呼ぶ名は「強(きょう)さん」か「会長」で今でも変わっていない。
呼ばれると実に親しみを感ずるものである。当時の弁士二人は、一人は自治庁で
位を極め、他の一人は弁護士になって県連の会長まで務めた。共に元気で生涯の
「心」友である。昭和二十六年三月同校を無事卒業することができた。
道との出逢い
叔父のイメージが胸から離れず、当庁に入り自分を磨きたい、との思いから、昭和
二十六年六月二十五日青雲の志を抱き、警視庁警察官を拝命した。まだまだ食糧
事情は最悪の状態であったが、過酷なまでの訓練の毎日であった。当時は田安門内
にある現在の日本武道館の隣に警視庁警察学校があった。入校当時まだ剣道は復興
しておらず、短剣術と称して警察官のみ片手で警棒操法等の試合が行われていた。
「艱難辛苦」八ケ月の教養を終えて無事卒業、杉並署に卒配になり二十七年八月初
めて剣道ができる様になった。全庁挙げての対署試合に初めて出場した折りに、当
時師範であった故持田盛二先生の雄姿を拝した。その姿、温顔、物ごしは、私の居
候時代の叔父と生き写しであった。叔父の人柄に惹かれて当庁を志望した私にとり、
予期せぬ事であった。胸が熱くなり、御指導を賜りたい思いが募るばかりであったが、
まだまだ近寄れない存在であった。剣道を志し、自分を磨きたい、との私の願いは、
一層深まっていった。一途なる思いを新たにした、当時の事が、改めて昨日の様に
思い出される。
以下次号につづく。